デザインの模倣と創造

デザインの模倣と創造

知人の井藤 隆志氏がデザインした自転車にコンセプトが類似している製品がグッドデザイン賞の上位賞にノミネートされています。彼のFBでの主張に対して多くの意見が寄せられています。全てが全面的な賛同ではないのはもちろんですが、「デザインに賞を与える」とは、どういうことであるかを考える機会を頂きました。

井藤 隆志のデザインした自転車
http://www.utilitebikes.com/photogallery/photo04.html

GOOD DESIGN BEST100の自転車
http://www.g-mark.org/award/describe/40034?token=xWZnc506gS

デザイン以外の賞についても同様のことは言えるでしょうが、あまり広げては論点がぼけてしまいますので、ここでは特に日本における工業製品のデザインについて、私の意見を述べたいと思います。まず、日本におけるGマーク制度のはじまりについて、日本デザイン振興会のHPにもあるように、制度のはじまりは、日本製品のデザイン模倣に対しての外圧に因るものです。日本は今の中国のようなデザイン意識であったわけです。残念ですが。

以下、日本デザイン振興会のHPより

「1)制度の誕生 「Gマーク制度」は、日本による外国製品の模倣という国際的な知的財産権問題を背景として、1957年(昭和32年)に設立されました。模倣を防止するには創造的なデザインを奨励するべきであるという考え方に基づくスタートでしたが、当時はまだデザインという言葉も一般的ではなく、企業でもほとんど実践されていませんでした。そこで審査員自身が街へ出て、「よいデザイン」探し出すことから始められたといいます。たいへんな労力と根気を必要とする選定でしたが、我が国の産業と生活を発展させていくためには「デザインがなにより必要だ」という強い思いが、この制度を生み育てていったのです」

「Gマーク制度」では、創造性が求められています。これは、デザイン行為の根源的かつ普遍的なものであると思います。

それでは、独創性とは何か。同時代を生きているデザイナーは、当然ながらその時代の社会に影響されながらデザインしているわけです。デザイナーが表現するモノは、何らかのかたちで時代の産物であると言えるでしょう。そのため、今回のような件も、コンセプトの類似から造形が生まれたと言えないことも無いように思えます。

しかし、待ってください。ここで大切なことは、もし模倣ではなく同様の発想から生まれたのであれば、先に製品化されたモノとの差別化をその時代の多くの人が理解するレベルで図るべきです。もし、意図的ではなく、知らなかったと言うのであれば、それはプロとして知らなかったことを恥ずべきであり、知った時、または指摘された時に真摯に対応すべきです。

工業製品のように大量生産品のデザインであればあるほど、デザインのオリジナリティに価値を与える(賞を与える)社会であるべきでしょう。



複製技術とデザイン

ベンヤミンは、「機械的な複製は芸術作品をアウラから解き放った」と言ったが、機械的複製の代表である工業製品のデザインはアウラから解き放たれ、真に生活者のものとして生まれたはずです。しかし、今、デザインにアウラの呪縛が再現しているようです。先日来のネットでのGマークに関する記事の背景にはデザインを前にしての現在的なアウラの存在が見えます。デザインを表象の手段として経済だけでなく政治まで関連してきているような影を感じます。
 
芸術とデザインの違いについて論じようとしたとき、複製技術との関わりを抜きには語れません。このように書き出すと、写真やリトグラフは芸術ではないのか?といった言説が出てきます。ここでの複製技術とは、無制限な複製、いつでもだれでも可能な複製です。写真やリトグラフは無制限な複製を数として制限する手段をもって、アウラを温存しつつ芸術としての鑑賞対象になっています。
 
立体物における複製技術では、今話題の3Dプリンターがありますが、現在の私たちの生活を支えている多くの人工物を作っているのは型です。樹脂成形品から陶磁器、お菓子まで原型を雄型にして雌型をつくり、大量生産を可能にしています。
 
先日、熱海の商店街を歩いていたら、店頭にお菓子の木型が置いてあるのを見かけました。お土産に買って帰ったお饅頭にはアウラは感じませんが、この木型には感じるものがあります。
 
デザインの原型には存在するアウラも複製技術によって大量生産されたものには必要ないのかもしれません。ギーディオンが製品を「ものいわぬもの(訳書での言葉)」と言っているように、本来、大量生産された製品デザインは芸術とは一線を画すものです。
 
デザインは、生活者自身が「ものいわぬもの」と関わる中で、それぞれの善なるアウラを育てるものかもしれません。
 
 
 
 
 
真似ることから学ぶ
 
「学ぶ」は「まねぶ(学ぶ)」で「まねる(真似る)」と同源であると言われています。

「ルーブル美術館は模写する芸術家の卵のためにできた」とも、聞いたことがあります。

「職人は、師匠の技を盗んで一人前になる」と言われますが、これも見て学べということでしょう。

製品開発において大切なことのひとつが、他社製品の分解から学ぶことだと教えられました。

若い頃、デザイナーがスケッチを上手く描けるようになる近道は、先輩のスケッチを真似ることだと悟りました。

言うまでもなく人類の歴史は、先人の知恵を学び利用し、新たな知恵を発見しては積み重ねて来たのですから、発見と創造の基盤に「学び」があることに間違いはないでしょう。

真似ることは、決して消極的な行為ではなく学ぶための基本的なステップであると思います。ところが近代になって、発明者の権利がビジネスとの関わりでクローズアップされ「どちらが先に発明したか・・・」の議論の中で、真似ることが否定的な意味に捉えられるようになってきたと思われます。

ジェームズ・W・ヤングは「アイデアのつくり方」の中で、「アイデアは既存の組み合わせである」と言っています。すなわち、如何に多くの既存の知を身に付けるかです。人類が蓄積してきた知を有効に活用するために、また、次なる新たな知を生み出すために、「真似ることから学ぶ」姿勢が大切であると感じています。




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