2013/11/09

複製技術とデザイン

ベンヤミンは、「機械的な複製は芸術作品をアウラから解き放った」と言ったが、機械的複製の代表である工業製品のデザインはアウラから解き放たれ、真に生活者のものとして生まれたはずです。しかし、今、デザインにアウラの呪縛が再現しているようです。先日来のネットでのGマークに関する記事の背景にはデザインを前にしての現在的なアウラの存在が見えます。デザインを表象の手段として経済だけでなく政治まで関連してきているような影を感じます。
 
芸術とデザインの違いについて論じようとしたとき、複製技術との関わりを抜きには語れません。このように書き出すと、写真やリトグラフは芸術ではないのか?といった言説が出てきます。ここでの複製技術とは、無制限な複製、いつでもだれでも可能な複製です。写真やリトグラフは無制限な複製を数として制限する手段をもって、アウラを温存しつつ芸術としての鑑賞対象になっています。
 
立体物における複製技術では、今話題の3Dプリンターがありますが、現在の私たちの生活を支えている多くの人工物を作っているのは型です。樹脂成形品から陶磁器、お菓子まで原型を雄型にして雌型をつくり、大量生産を可能にしています。
 
先日、熱海の商店街を歩いていたら、店頭にお菓子の木型が置いてあるのを見かけました。お土産に買って帰ったお饅頭にはアウラは感じませんが、この木型には感じるものがあります。
 
デザインの原型には存在するアウラも複製技術によって大量生産されたものには必要ないのかもしれません。ギーディオンが製品を「ものいわぬもの(訳書での言葉)」と言っているように、本来、大量生産された製品デザインは芸術とは一線を画すものです。
 
デザインは、生活者自身が「ものいわぬもの」と関わる中で、それぞれの善なるアウラを育てるものかもしれません。
 

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